伝説と公文書からみる「陳達達」ならびに「張義春」――日文の資料と小説「護郷兵前後」を軸にして

山本芳美

都留文科大学教授

 はじめに

20116月から20123月にかけて、私は勤務先大学から学外研究者の資格を得たため台湾に滞在することができた。国立政治大学民族学系に客座副教授として籍をおかせてもらいながら、卑南族南王集落にある洪文貴さん・林清美さん宅に滞在した。2000年から2003年まで、中央研究院民族学研究所に訪問学員としての留学経験があるが、2011年の滞在では前回からすれば大きく研究環境が変化した。それは、日本時代の雑誌記事や書籍などのデジタル化とデータベース化が急速に進んだことであった。筆者は滞在中、時折、国立台湾図書館のデータベース「日治時期期刊全文影像系統」や「日治時期図書全文影像系統」(http://www.ntl.edu.tw/mp.asp?mp=1)にアクセスし、関心ある領域を中心に原住民族関係の公文書や雑誌記事などの検索や収集をおこなった(注1)。台湾では日治時代資料のデジタル公開が日々進められているが、数年前の時点でも、一生かかっても整理できないほどのさまざまな資料を得ることができた。

一方、日本においても2000年代後半には、国会図書館や国立公文書館の「アジア歴史資料センター」でもデジタル化した資料の公開が開始されている。日本のデータベースでは、『理蕃誌稿』や『番族調査報告書』などの台湾原住民族研究の基本書が公開されており、研究が格段に便利になった。なかなか現地調査ができなくなった人間にとっては、これまで埋もれていた資料を掘り起こす研究を試みる日々となった。

さて、国立台湾図書館のデータベースで、台湾原住民族の歴史、特に牡丹社事件や卑南族について調べていったところ、久保田正衛という人物が1945年以前に執筆した「護郷兵前後」という短編小説に行き当たった。「日治時期期刊全文影像系統」に収録されていた「護郷兵前後」は、連載12回のうち第3回から最終回までがデジタル公開されており、第11回には数ページ欠けていた。切り抜きだったようで、どの雑誌の何号に連載されていたのか、掲載年もわからない。しかしながら、その小説は卑南族の陳達達ら数名の人々をとりあげており、筆者の興味をひいた。南王集落にて陳達達について長老たちに聞いてみると、現在でも重要な人物として人々に語り継がれていることを知ることとなった。陳達達の子孫が現存することもわかってきた。

最近出版された巴代の小説『最後的女王』後記にまとめられたところによれば、陳達達は、1864年に生まれ、1928年に享年64辭世した十九世紀中葉,大致是卑南覓平原(註:今台東平原)勢力整合最動盪的時期,陳達達作為卑南大社領導氏族「拉赫拉」長女,她決定肩挑振興氏族並實質掌握卑南大社領導權的重任,而最後,應日本之邀,率領卑南大社、馬蘭大社、大巴六九社的聯軍,在雷公火(註:今台東關山東邊的電光里周邊區域)擊潰清朝在東部最後有組織的軍隊劉德杓部,也奠定了日本往後對卑南大社禮遇的基礎。(以上、巴代2015『最後的女王』後記)

この発表では外部の研究者として、卑南学の発展に役立つような基礎的な資料を提供することで卑南族の皆さんに寄与したいと考えている。今回の発表では、1895(明治28、光緒21)年から1928(昭和3、民国17)年にかけての陳達達の動向を軸に、小説のあらすじや雑誌に掲載された陳達達の写真、久保田が参考にしたと思われる『臺灣教育會雑誌』の記事「卑南社頭目の娘タアタアについて」を紹介していく。さらに、その実像を探るために、日本の国立公文書館「アジア歴史資料センター」で公開されている防衛庁防衛研究所所蔵の1898年前後の陸軍関係の公文書、ならびに護郷兵召募前後の卑南族の動向について触れた台湾総督府関係の公文書を参照してみたい。

作者:久保田正衛について

 日治時代の日本人作家たちは台湾原住民族を取り上げたさまざまな小説やエッセイを短編、長編を問わず書いてきた。筆者は文化人類学者であり、文学研究者ではないが、

これまでの資料調査の過程で読んできた小説の傾向でいえば素材となったのはパイワンやタイヤルが中心で、卑南族を取り上げた小説は少ない傾向は確かである。小説のテーマは、牡丹社事件、霧社事件、蕃社滞在記、皇民化や戦意を高揚する目的で書かれたものなどが中心であった。

 「護郷兵前後」は、卑南族の歴史の一コマを取り上げている。この珍しいテーマの小説に取り組んだ作者は、どのような人物であろうか。他に書いた小説があるのかどうかを調べたが、明らかにするまでには至らなかった。現時点で判明したのは、久保田正衛は1944年に、臺灣新報社編輯局次長整理部部長の肩書で小説「佛桑華に聽く」を発表している。この「佛桑華に聽く」と「護郷兵前後」以外は、「日治時期図書全文影像系統」には記録がなく、詳しい人物データがない。

從傳和日本公文書資料中所看到的「陳達達和張義春」以日文資料和小「護兵前後」為主軸

山本芳美

都留文科大學教授

 翻譯:東京旅館專門學校講師 林虹瑛

 

前言

20116月到20123月為止,我在所屬大學取得了校外研究資格,得以到台灣做調查。我隸屬於國立政治大學民族學系的客座副教授期間,借住在卑南族南王部落的洪文貴林清美宅調查。2011年的調查和以前我在台灣留學時比較起來研究環境有了很大的變化。雖然我在2000年到2003年之間,以中央研究院民族研究所訪問員的身分留學,不過到了2011年日本時代的雜誌記事,或是書籍的電子化以及檔案化都急速的進行,這無疑是個好消息。我在調查期間,有時候會到國立台灣圖書館的資料庫「日治時期期刊全文影像系統」,或是「日治時期書全文影像系統」(http://www.ntl.edu.tw/mp.asp?mp=1)查詢收集一些有關資料。比如說原住民族關係的電子檔案或是雜誌記事等等(注1)。正因為台灣的日治時期資料的電子檔案公開,才得以看到在幾年前還覺得是要花一輩子都整理不完的各種資料。

另一方面,日本也在2000年後半開始公開國立國會圖書館和國立公文書館「亞洲歷史資料中心」的數位化資料,日本的資料庫也公開了理蕃誌稿》《番族調報告書等台灣原住民研究的基本書籍,讓研究變得更加方便。對於變得難以做田野調查的人來說,試著把這些埋沒的資料再度挖掘出來研究就變成是日課。

在國立台灣圖書館的資料庫當中,台灣原住民的歷史,查詢特別是牡丹社事件或是卑南族相關資料,就會出現久保田正衛這一號人物,在1945年以前執筆的「護兵前後」這部短篇小說。收錄在「日治時期期刊全文影像系統」的「護兵前後」共連載12回,其中從第3回到最後1回都有公開的電子檔,第11回的原稿出現數頁。資料好像是用剪報的方式取得的樣子,是在哪本雜誌的第幾號連載的,連登出來的年份都不知道。不過,這本小說提到了卑南族陳達達等名人物的名字引起了筆者的興趣。在南王部落向長老們問起陳達達的事情,才知道是現在也被口傳的重要人物,也因此知道了陳達達現存的子孫。

根據2015年出版的巴代的小說最後的女王,其後記當中有此記錄。陳達達生於1864,1928年辭世,享年64歲。十九世紀中葉,大致是卑南覓平原(註:今台東平原)勢力整合最動盪的時期,陳達達作為卑南大社領導氏族「拉赫拉」長女,她決定肩挑振興氏族並實質掌握卑南大社領導權的重任,而最後,應日本之邀,率領卑南大社、馬蘭大社、大巴六九社的聯軍,在雷公火(註:今台東關山東邊的電光里周邊區域)擊潰清朝在東部最後有組織的軍隊劉德杓部,也奠定了日本往後對卑南大社禮遇的基礎。(以上均出自巴代2015最後的女王後記)

而且我希望藉由這個發表,以一個外部研究者的身分,能為卑南展提供基礎資料和助益,並期許卑南族的各位繼續努力。這個發表是1895(明治28、光緒21)年到1928(昭和3、民国17)年間,以陳達達和漢族丈夫張義春(也稱新才)的動向為主軸,小說的梗概或是雜誌所刊載的陳達達的相片,都看得出久保田參考了臺灣教育會雜誌的記事「卑南社頭目之女達達」,這方面的資料也配合一起介紹。為了探訪實際的情況,也參考了日本國立公文書館「亞洲史資料中心」所公開的防衛防衛研究所所1898年前後陸軍相關電子檔案,和提及護兵召募前後卑南族動向的台灣總督府關係電子檔案。

 另外,關於以「護兵」為名的小說,除了郭祐慈的學位論文以外,到現在為止在台灣都沒辦法接觸到相關資料,所以可以得知在卑南民族史當中好像並不是個受矚目的項目。之後我們會提到在理蕃誌稿第一卷所收錄的護兵相關構想「義勇蕃隊組織意見」。實際上,當時花了1年時間培養卑南族青年80名為護兵,他們參加了台南方面的土匪鎮壓,這一點在先行研究是幾乎沒有被提起的。筆者認為本發表的意義在於,從小說當中所獲得的線索,再藉由電子檔案等來補完當的狀況和情報。

關於作者:久保田正衛

  日治時代日本人作家們,將台灣原住民寫成各種長短篇的小說或是隨筆,筆者是文化人類學者,並非文學研究者,到目前為止的資料調查過程當中,所閱讀過的小說,若要說取向的話,是以排灣族或泰雅族為中心等,可以成為研究素材的內容為多。可以稍微指出的是以卑南族為主的小說比較少。小說的主題多為牡丹社事件、霧社事件、蕃社停留記、皇民化等大都是讓戰鬥意志提高為目的的內容。………………..(以下省略,全文詳見出版之卑南學彙編。)

 

「護兵前後」的梗概

兵是什麼?

陳達達和其丈夫張義春的活動

陳達達的活躍、結婚和

小結

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